鳉鱼繁殖:【関西事件史】
来源:百度文库 编辑:九乡新闻网 时间:2024/04/30 02:39:28
「輸血頼まれたんじゃ。オヤジが死んだらお前が責任とってくれるんかい!」
大阪市天王寺区の大阪警察病院の前は、300人を超えるやくざが目を血走らせて押しかけ、大阪府警の警官隊と押し問答を続けていた。昭和60年1月26日、土曜日の夜。広域暴力団山口組の竹中正久?4代目組長(当時51歳)が、大阪?吹田市内のマンションで対立する暴力団一和会の組員にピストルで撃たれ、担ぎこまれたのがこの病院だった。当時は大阪社会部の駆け出し記者で、病院前で緊迫した一部始終を見ることになった。翌日、竹中組長は意識を回復しないまま死亡。2年余りにわたって繰り広げられ、双方合わせて30人近い死者を出すことになった「山一抗争」の幕開けだった。
被害者は「タケナカマサヒサ」
銃撃事件はその日午後9時15分ごろ、吹田市江坂のマンションの玄関で起きた。ステンドグラスが輝き、2階まで吹き抜けになった玄関ホール。コート姿の3人の男に向けて、待ち伏せしていた男2人がピストルを乱射した。
目撃したのはこのマンションに住む女子中学生だった。
「大変です。男の人が撃ち合っています」
必死で110番した少女が再び駆け戻ると、ロビーのエレベーター前に血だらけになった男が2人倒れていた。1人はうめき声をあげ、もう1人はピクリとも動かなかった。竹中組長に同行していた山口組ナンバー2の若頭、中山勝正?豪友会会長(当時47歳)と、南組の南力?組長(同47歳)だった。
胸や腹に銃弾を受け、瀕死(ひんし)の重傷を負った竹中組長は、自力で自分のベンツに乗り込み、配下の組員の運転で大阪市南区(現中央区)内の南組事務所に向かっていた。そこから救急車を呼び大阪警察病院に搬送されたのだった。2011.10.11 11:00 (2/4ページ)[westピックアップ] 竹中組長死亡の知らせに沈痛な様子の組員ら=大阪市天王寺区の大阪警察病院山口組は3代目の田岡一雄組長が昭和56年7月に死亡。3年間にわたる後継者争いの末、この事件の前年の7月、竹中組長が4代目になった。しかし、山口組内の反竹中派はその前月に一和会を結成して分裂。一触即発の状態が続き、いつ対立抗争事件が起きてもおかしくないといわれていた。だが、いきなり山口組のトップ2人が撃たれるとは、警察当局も予想すらしていない展開だった。
昭和60年当時、警察が使用している無線は、市販の受信機を使って誰でも傍受できた。もちろん、事件記者たちも警察無線を傍受し、それを重要な取材源のひとつにしていた。
あの夜、警察病院に到着した制服警官が無線で府警本部通信司令室に報告していた。
「え~、被害者は、所持品の診察券からカタカナで『タケナカマサヒサ』。え~、漢字の字体はわかりません。どうぞ~」
その報告に、無線を傍受していた警察関係者だけでなく、新聞記者たちも騒然となった。
「タケナカマサヒサって、もしかして4代目の竹中正久?」。
撃ったのが一和会の関係者なら、山口組と一和会の全面抗争になる。週末の夜を楽しんでいた事件記者たちは、山口組や一和会の組員たちと同様、非常招集されることになったのだった。
吹き飛んだ週末ムード
当時、私は入社4年目。前年10月に初任地の和歌山支局から大阪本社社会部に異動になったばかりのサツ回り記者だった。持ち場は天王寺、浪速、西成、住吉など大阪市の南部エリア。取材拠点となった記者クラブが天王寺動物園(天王寺区)の中にある通称「動物園回り」と呼ばれ、同年代の各社の若手記者たちと事件を追いかけたり、街ダネを拾ったりしていた。
2011.10.11 11:00 (3/4ページ)[westピックアップ] 竹中組長死亡の知らせに沈痛な様子の組員ら=大阪市天王寺区の大阪警察病院
銃撃事件を知らせるポケットベルが鳴ったのは、仕事もひと段落し、動物園に隣接するレトロな歓楽街「新世界」で、ひとりのんびり遊んでいた時だった。
今なら携帯電話に直接かかってくるのだが、当時はポケットベルが鳴ると大阪府警本部の中にある産経新聞の記者席に電話をかけるのが“お約束”。ポケットベルは24時間オンの状態で、昼だろうが夜だろうが、日曜だろうが正月だろうが、お構いなしに鳴らされる。たいていは事件の発生での呼び出しで、ろくなことはない。
「週末なのに…」。この夜も、気が乗らないまま公衆電話を探して電話をかけた。
「吹田とミナミで発砲事件みたいや。おまえの持ち場は組事務所だらけやから、気ぃつけといてや」
竹中組長が南区の組事務所から救急車で搬送されたため、当初は事件現場が吹田とミナミの2カ所と思われていた。どちらも自分の持ち場ではない。府警本部に詰めている先輩記者の指示も大まかなものだった。
ところが、またポケットベルが鳴る。いぶかしく思いながら、もう一度電話をかけた。
「え、えらいこっちゃ。撃たれたのは山口組の竹中組長や。搬送先は天王寺の警察病院。すぐに行ってくれ」
電話口の先輩記者の声も上ずっていた。
「なんでまた、持ち場の天王寺の病院に運んでくるんや…」。内心ぼやきながら病院に向かった。
2011.10.11 11:00 (4/4ページ)[westピックアップ] 竹中組長死亡の知らせに沈痛な様子の組員ら=大阪市天王寺区の大阪警察病院「オヤジに会わせろ!」
警察病院に着いたのは、比較的早いほうだった。すでに竹中組長は数人の組員に付き添われて救急車で病院内に運び込まれたあと。病院西側の救急入り口には縄張りがされ、数人の天王寺署員が警戒にあたっていた。
この直後から、静かな住宅街にある病院周辺はとんでもない状態になる。
ほどなく、「4代目撃たれる」の知らせを聞いた幹部組員らが血相を変えて続々と駆けつけてきた。
「こら、ポリ公! オヤジに会わせんつもりか。入らさんかい!」
「張ったロープから中へ入ったもんは公務執行妨害でパクる(逮捕する)ぞ!」。
やくざの親分連中と制服警官の押し問答が続く。
そうこうしているうちに、組員の数は膨れ上がった。見物人も含めればおそらく300人を超えていたのではないだろうか。病院のそばの道路の歩道上は、ひと目でそのスジとわかる風体の人間があふれ、怒号が飛び交った。道行く人はこの「黒い集団」を避けて遠回り。周辺は異様な雰囲気に包まれた。
一方、大阪府警は機動隊を大型バスに分乗させて現場に派遣、「病院に入れろ」と騒ぐ大勢のヤクザとにらみ合う格好になった。
(取締役東京編集局長 飯塚浩彦)
◆山一抗争◆
日本最大の広域暴力団「山口組」が、病死した田岡一雄?3代目組長の後継をめぐって分裂。昭和59年6月、竹中正久若頭の4代目組長就任に反発した山本広?山広組長を支持する直系組長グループが「一和会」を結成して対立した。
分裂当時、山口組は組員4700人、一和会6000人と、勢力的には一和会有利とされた。しかし、山口組側は切り崩し工作を進め、一和会側は有力メンバー組織が解散したり、山口組側に寝返ったりするケースが相次いだ。60年1月の竹中組長射殺事件発生時点では山口組1万人、一和会2800人と、完全に逆転していた。事件は、窮地に追い込まれた一和会側が“暗殺隊”を結成し、竹中組長の命を狙ったものだった。
竹中組長の射殺で両組織の全面抗争となり、62年2月の山口組による抗争終結宣言までの間に、300件を超える抗争事件が発生。一和会側に死者19人負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人が出たとされる。また、警察官や市民にもけが人が4人出た。
山口組4代目組長射殺(下)全面戦争の予感2011.10.12 11:00 (1/5ページ)[関西事件史](上)押し寄せる〝黒い集団?
対立する一和会系とみられるヒットマンに狙撃された竹中正久?4代目山口組長が搬送された大阪警察病院(大阪市天王寺区)。安否を知ろうと駆けつけた組員らの怒号が飛び交い、警戒に当たる警察官とのにらみ合いが続く中、病院の中から出てきたひげ面の男が警察のハンドマイクを借りて、集まっていた組員たちに呼びかけた。
「静かにせい。いま騒いだからというて、オヤジが助かるというもんやない」
山口組最高幹部の一人の岸本才三?岸本組長だった。静かになった組員たちに向かって岸本組長が続けた。
「いま、オヤジは手術中や。輸血が必要や。O型のもん、5人だけ中へ入れてもらえ。O型のもん、手ぇ挙げてみぃ」
その言葉に集まった組員たちから大きなどよめきが起きた。
「うぉ~」
瀕死(ひんし)のトップの体に自分の血が入る。そう感じたのだろうか、ほとんどの組員が手を挙げた。
「えっ、山口組の組員ってみんな血液型はO型? そんなアホな」
こちらの目にはなんとも滑稽に映ったのだが、目を血走らせた組員たちは大真面目だ。
別の幹部が組員たちに呼びかけた。
「酒を飲んどるやつはあかんぞ」
そして、ひと呼吸おいて、思い出したように続けた。
「そや。シャブ(覚醒剤)打っとるやつもあかんぞ」
思わず吹き出しそうになった。でも、目の前にいる組員たちからは笑い声もない。殺気立った空気が漂い、とても笑える雰囲気ではなかった。
2011.10.12 11:00 (2/5ページ)[関西事件史] 竹中組長とともに射殺された南組長の葬儀。組員らが道路にあふれた=大阪市浪速区容赦ない「居残り」指示
病院内の様子がわからないまま時間が過ぎていき、日付は翌27日、日曜日に変わった。午前1時すぎの朝刊の締め切りまでに、緊迫した周辺には大きな変化はなかったが、集まった大勢の組員たちは帰ろうともしない。
私は27日も仕事を命じられていた。産経新聞大阪本社にとって最大の主催イベント、大阪国際女子マラソンの開催日。その取材班に組み入れられていたのだ。
締め切り時間もすぎ、日曜日は夕刊もないのでキリのいいところで引き上げたいと思っていた。公衆電話から社会部に電話をかけ、先輩記者に病院前の状況を詳しく説明した。先輩が「お疲れさん、じゃぁ、帰ってくれ」といってくれるのを期待しながら…。
だが結果は違った。「そうか、じゃあ、そのままそこに残ってくれ」
「あの~、女子マラソンの取材を指示されているんですけど…」
「そんなん、別の誰かに代わってもらうから。気にせんでもええよ」
「いや、でも…」
そんな経緯で、結局、300人近いコワそうなお兄さんたちといっしょに警察病院の前で立ったまま朝を迎えることになった。
「江坂で一和のやつが大ケガしとったらしいな」
「なんでも、4代目の車を追いかけてきたのを、運転手がはねたらしいで」
「ほ~、そら手柄やないか。ようやった」
集まった組員たちの会話が聞こえてくる。
時間がたつにつれ、組員たちも多少落ち着きを取り戻してきたのか、記者たちに話しかけてくる組員もいた。
2011.10.12 11:00 (3/5ページ)[関西事件史] 竹中組長とともに射殺された南組長の葬儀。組員らが道路にあふれた=大阪市浪速区「にいちゃん、どこの記者や? 産経? きょうの住之江競艇の予想、サッパリやったやないか」
「それ、サンスポと違います?」
「なんや、サンスポの記者と違うんかいな」
話しかけられてもあまりうれしくないのだが、何の因果か病院前でとなりあわせで立っているのだ。
こちらも記者。ぼーっと見ていても仕方がない。まず、組員たちの話を聞かなければ…。
「これで、一和会と全面戦争ですかね?」
「そら、やられたまんま黙っとくというわけにはいかんわな。それに、こないなことになったのはやな、3代目の姐(あね)さんが…」
そばにいた古参の組員が話をさえぎった。
「おい、いらんこと言うな。こっちへ来とけ」
周囲の空気は張り詰めたままだった。
3代目の姐さん
組員が話をしかけた「3代目の姐さん」というのは、3年余り前に死亡した田岡一雄?3代目組長のフミ子未亡人のことである。
田岡組長の死後、後継者に決まりかけていた山本健一?山健組長も翌57年2月に病死。このため、山口組はフミ子未亡人を中心に“集団指導体制”を敷いたが、4代目をめぐって内部の対立がエスカレート。一時は分裂を避けるため、最古参の山本広?山広組長を3代目代行に据え、竹中組長を若頭にして内部結束を図ったが、“武闘派”と呼ばれる竹中組長が勢力を伸ばすにつれてバランスが崩れた。
決定的局面を迎えたのはこの事件の半年前の59年6月だった。フミ子未亡人が竹中組長を4代目に指名したことで山本組長らが反旗をひるがえし、ついには山口組を脱退。全国最大の暴力団組織は、竹中組長の「山口組」と、山本組長を支持する「一和会」に分裂したのだった。
2011.10.12 11:00 (4/5ページ)[関西事件史] 竹中組長とともに射殺された南組長の葬儀。組員らが道路にあふれた=大阪市浪速区組長、死す
場面は再び大阪警察病院前。私は大勢の組員たちの中で、一睡もしないまま朝を迎えたばかりか、昼になってしまった。本来、私も取材に行くはずだった大阪国際女子マラソンの模様を携帯ラジオが伝えていた。優勝はアイルランドのキャリー?メイ選手。華やかなインタビューの様子が流れていた。組の名前が胸に書かれたジャンパー姿のお兄さんたちに混じりながら、「本当なら、取材の輪の中にいたかもしれないのになぁ」とため息をついていた。
竹中組長の容態は相変わらず病院前ではわからないまま時間がすぎ、2日目の夜を迎えた。午後11時を回り、集まっていた組員たちもピーク時の半分ぐらいに減っていた。
「今夜もここで徹夜か…」
朝刊の締め切り時間を気にしながら、そんなことを考えていた時だった。
病院の中にいた組員が、両手で×印を示しながら小走りで表に現れた。
「11時25分…」と言って首を振る。病院前に集まっていた組員たちに緊張が走り、あちこちから怒声が飛ぶ。
まもなく竹中組長の弟が大勢の組員に囲まれて病院を後にし、入れ替わるように山口組本部の幹部らが雨の中を続々と駆けつけてきた。
入り口で入念なボディーチェックをする機動隊員に、興奮した組員が「はよ、入れんかい」と怒鳴り声を上げる。涙を見せながら病院に駆け込もうとする組員の姿もあった。2011.10.12 11:00 (5/5ページ)[関西事件史] 竹中組長とともに射殺された南組長の葬儀。組員らが道路にあふれた=大阪市浪速区「このままでは終わらせんぞ」
「覚えとれよ」
うめくように叫ぶ組員たちの表情に、この後展開されることになる山口組と一和会の全面戦争を予感した夜だった。
(取締役東京編集局長 飯塚浩彦)
◆山一抗争◆
日本最大の広域暴力団「山口組」が、病死した田岡一雄?3代目組長の後継をめぐって分裂。昭和59年6月、竹中正久若頭の4代目組長就任に反発した山本広?山広組長を支持する直系組長グループが「一和会」を結成して対立した。
分裂当時、山口組は組員4700人、一和会6000人と、勢力的には一和会有利とされた。しかし、山口組側は切り崩し工作を進め、一和会側は有力メンバー組織が解散したり、山口組側に寝返ったりするケースが相次いだ。60年1月の竹中組長射殺事件発生時点では山口組1万人、一和会2800人と、完全に逆転していた。事件は、窮地に追い込まれた一和会側が“暗殺隊”を結成し、竹中組長の命を狙ったものだった。
竹中組長の射殺で両組織の全面抗争となり、62年2月の山口組による抗争終結宣言までの間に、300件を超える抗争事件が発生。一和会側に死者19人負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人が出たとされる。また、警察官や市民にもけが人が4人出た。
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