龙脊梯田全景楼大酒店:「すみません」の真意 ―「15分前に何があったか」を考える心構えは何を意味しているのか― ...

来源:百度文库 编辑:九乡新闻网 时间:2024/04/29 00:31:25
「すみません」の真意
―「15分前に何があったか」を考える心構えは何を意味しているのか―
高 英月
バイト先(AM/PMコンビエンス?ストア)で機会があって今年の6月16日関東地域で開かれた第三回オーナー「ワークショップ」に参加したことがある。そこで来店する顧客が15分前に何があったかを考えながら接客する心構えを持たなければならないという非常に不思議な経営方針を聞いて何もそこまでやる必要がないのではないかと思っていた。しかし、人に必要以上に気遣いする日本人なら、日本社会ではあり得ることではないかということに気付いた。そしてもしかしたら「ありがとう」より「すみません」、「悪い」、「すまない」、「ごめんね」をもっと頻繁に使う日本文化と何らかの繋がりがあるのではないかと思い、「すみません」の真意についてもう一度改めて考えることになった。つまり、「世界一サービスの天国」と呼ばれている秘訣、その源泉が「すみません文化」にあるのではないかと。
Ⅰ、「すみません」のニュアンスの違い― 日中比較
1.「すみません」の意味
「すみません」という言葉の意味を日本の辞典(『広辞苑』)で引いてみると「相手に悪く、自分の気持ちが片付けない。申し訳ない。謝罪や依頼の時にいう。」と書かれている。そして(三省堂の『例解新国語辞典』)では「お詫びやお礼をいうときのことばである。」と書かれている。中国では「すみません」を「?不起」「不好意思」「??」などというが、中国の辞典(『金山時覇』)では「申し訳ない。お礼をいうときいうことば。謝るときと頼むときいうことば。」と書かれていた。ここ三つの辞典の解釈に共通するものは「謝罪」「お詫び」をするときいうことばであるということである。
「すみません」の語源は「澄まない」ということで、もともと「心が澄みきらない」、「このままではすっきりしない」という意味で使われていたと伝われている。狂言の中でも「それではお上にすみそうもない」といっており、「心がすまない」と使われていた。それを丁寧にいったのが「すみません」である。この語源からみると「すみません」はおそらく「お詫び、謝罪」の意味で使われていた言葉であろう。
物を頂いたときなど感謝の意味をもって「すみません」と使うようになったのは昭和になってからだと伝えられている。中国はいつからだったかは調べられないが辞典にそういう意味の解釈が載っているから、使われていたのに違いない。
ところが「すみません」という言葉の実際の使用で日本と中国はかなり違ったニュアンスをもっている。
2.「すみません」の使用で日本と中国の違い
日本人は日常生活の中で「ありがとう」よりも「すみません」のほうをもっと頻繁に使っている。中国人の感覚では「ありがとう」を使わなければならない場合まで「すみません」を使う。例えば電車の中でお年寄りに席を譲ると中国では大体「謝々(ありがとう)」というが、日本では「すみません(ありがとうございます)」というときが多い。
中国では通勤バスの中で誤って人の足を踏んだら、踏んだ人が踏まれた人に「対不起(すみません)」といって謝るが、日本では踏まれた人も「すみません」という「不思議」な光景がよくみられる。
このように同じ意味の言葉を両国では日常生活の中でかなり違った感覚で使っている。その理由は一体どこにあろうか。
「すみません」は「謝罪」や「依頼」、「お礼」のときに使う言葉であるから謝った人が被害者に、依頼する人が頼まれた人に、恩恵を受けた人が与えた人にいう言葉である。その意味では中国人が使っているのが正しいのである。そうしたら何故日本人は違った感覚で使っているのか。日本人は間違って「すみません」を使っているのか。そうではない。中国人は人のせいで私が怪我をしたとか、私が間違っているから謝らなければならないという主観的、自己中心的考え方を持っているのに対して、日本人は一歩進んで、私が邪魔したから、相手が過ちを犯したとか、私のせいで相手にどんな影響を及ぼしたかを考え、心から謝る客観的、先に相手の立場に立ってものことを考慮する奉仕的な考え方を持っている。
それ故、満員電車の中で人に足を踏まれても、お年寄りが席を譲ってもらうと自分がいることで人に迷惑をかけたとおもって何回も「すみません」を繰り返すのである。このように考えると日本人は間違った使い方をしているのではなく、かえって奥の深い使い方をしているといったほうが正しいかもしれない。「すみません」は文化として日本社会に定着し、それが安定した社会秩序、高い国民レベルに繋がるのである。そしてそれが「世界一サービスの天国」と呼ばれることにも繋がるのでる。
Ⅱ、「15分前に何があったか」を考えている発想の源流
1. 日本サービス業への「すみません文化」の浸透
相手の立場に立ってものことを考える心構えがサービス業の丁寧で、細心な接客に繋がるのではある。例えば、顧客の立場に立ってどうすれば顧客が気持ちよく満足して買い物を楽しめるかを常に考えている。更にこの店でないと買い物をしたくない気持ちまで抱かせる努力までしている。
小売業では上述のような方針として1990年代初めにCS(顧客満足度)運動、1990年代末にCIS(顧客感動満足)運動、現在はCISG(顧客感動満足の保証=常に感動する店舗)運動とEISG(社員、スタッフの感動満足の保証)運動を展開している。
上記の感動満足などは「現実」と「期待」の関係で表れるが、現実<<期待であると顧客の怒り、現実<期待であると不満、現実=期待であると満足、現実>期待であると感動、現実>>期待であると感激に繋がるという。現段階では現実が期待値を超えて顧客に感動満足を与えることを店の方針として、実行することによって常に感動する店舗を保証できる運動を展開して顧客のリピート率を高めている。その取り組みとしてマニュアル接客ではなくホスピタリティ(hospitality)接客、つまりサービスを超えた接客を試みている。
あるコンビニエンス?ストアでの出来事である。おつかいで食パンを買いにきた5才の子供が160円しか持ってこなかったが、食パンの値段は168円だった。8円足りないお金を店員自身が出してその子供が食パンを買って帰れるようにしたというエピソードである。8円少ない金額ではあるが、おつかいにせっかくきた小さい子供を8円のためにそのまま帰らせるのが可哀想だとおもって自分のお金を出してくれる店員のその気配りさが日本人の「すみません文化」からくる美徳ではないだろうか。それがまたその子供の両親にも感動を与えることになり、店の貢献にも繋がるのである。このようにマニュアルではできない顧客に心の込めた対応、気持ちのある対応が日本人のよく口にする魂が入った接客のよい事例である。
2. 接客面での日本と中国のギャップ
私のバイト先でもCISG運動の取組みとして顧客にサービス以上のホスピタリティ接客に心かけている。つまり、店舗の基本的な業務以外にも顧客が何を望んであるかを考え、顧客の特徴を覚えることに努めている。例えば、スパゲッティをお箸で食べる顧客、350mlの小さいサイズのパックジュースに長いストローを付けたがる顧客、来店の度に同じ銘柄のタバコを必ず一個買っていく顧客の特徴と顔を覚えて次に来店したときは顧客が言わなくてもやってあげる気配りをすると顧客は感動するのである。そしてそれがお店の繁栄にも繋がるのである。
その成果として、お店の一日の平均売上金額は70~80万円、一日の平均客数は1700~1800人、年平均売上金額は2億5200万円~2億8800万円、年平均客数は61.2万~64.8万人に達している。
このように小さいことでも、細かいことでも心を込めて真に顧客の立場に立って顧客のために奉仕すると顧客もすぐ感動するし、それが結果として店の繁栄にも繋がるのである。日本では上述のような光景がよく見られる。中国とは対照的な光景である。
去年、中国に行ったときのことである。そのとき、ある大都市の駅前のスーパーに買い物に行った。私の前に並んでいた50代の男性(田舎から来てるような姿)が品物をいっぱい買ったのに店員が小さいビニール袋に無理にギューギュー詰めて今でも破れそうな感じだった。それでその男性が店員に申し訳ないが大きい袋を一枚頂けないかと聞いたら、袋に入れてあげたじゃないかと冷たく断った。それでもその男性は笑いながら荷物が多くて袋が破れそうだから大きい袋に換えたいと何回頼んでも袋に入れてあげたのに欲張っているといって逆切れして最後まで換えてあげなかった。いくらもしないビニール袋さえ出し惜しむその店員の心の渋さに唖然として言葉が出なかった。相手の立場に立ってものことを考える心のゆとりをちょっとでも持っていたら、多い荷物を抱えて遠い旅程に出る男性にそのような冷たい対応はしなかったはずである。
日本のスーパーだったら、袋くらいいくらでも渡したし、話をかけなくても店員が自ら率先して大きい袋にそれも持ちやすいように二つに分けていれてあげたのに違いない。恥ずかしいことであるが、中国人の私たちにはこのような他人に対する気配りが欠けているのである。
相手の立場に立ってものことを考える「すみません文化」が顧客の期待値を超える対応、顧客の来店の15分前の背景まで考える姿勢、顧客に対する配慮にまで及んで顧客に感動を与えるのではないだろうか。そしてそれこそが上述したように「サービスの天国」「サービスの世界一」と呼ばれる源泉の一つではないだろうか。
Ⅲ、日本的「すみません」に対する評価
1. 日本的「すみません文化」から習うべき点
実は日本人でさえ自分たちが常に使っている「すみません」の真意を正しく理解してない。いや気づかないで、無意識的に使っている。つまり日本社会に文化として定着している。
インターネットのあるホームページで読んだ日記であるがそこに次のように書いてあった。
「すみません」とは実は「心が澄みきらない」「このままではすっきりしない」という意味で使われていた。そこから考えてみると私たちは「すみません」を正しく使ってない気がする。それで私は「すみません」の言葉を減らして、意識的に「ありがとう」というように努力している。しかし、それがなかなかおもうようにいかない。それでもあきらめないで頑張っている。みんなも一緒に頑張ろうよと。
このように日本人でさえ、相手の立場から考えて使う「すみません文化」を意識してないし、それが日本人の美徳の源泉であるということにも気付いてない。私も日本に来たばかりのときは「すみません」を頻繁に使う日本人のことが不思議でたまらなかった。日本人は「すみません」の意味を分からないのではないかとおもっていたことさえあった。しかし、日本語学校の時、ある雑誌で日本の「すみません文化」に関する記事を読んでから、「なるほど」とおもって「すみません」を使うように心かけた。今はすっかり慣れてきて無意識的に連発するときもある。
人のせいで自分が怪我をしたと怒っている被害者意識を先に持つ中国人的考え方とは逆に自分のせいで人に迷惑をかけたと誤る加害者意識を持っている日本的考え方どちらがいいかどうかは別として自分のせいで人に迷惑をかけたと心から誤る心構えは習うべきである。人に対する心を込めた配慮、それが我々中国人には欠けている。もちろん正義があって、義理がある民族ではあるが???
2. 「すみません」の逆効果
上述のように「すみません」は本来他人のことを配慮して使う言葉で、日本人の美徳を表す文化であるが、場合によって逆効果をもたらすときもある。社会人なら誰もがそうであろうが、社会的役割が変わるのである。例えば、接客の立場から顧客の立場に、また顧客から接客の立場にその役が変わるのである。顧客の立場になると人はよく別人になって「すみません文化」を逆利用したがる。顧客だから自分のわがままを必ず受けてくれると、受けざるを得ないことを知っていてストレス発散の場として利用している人が現代日本社会には少なくない。
例えば、コンビニに新人が入って対応が少しでも遅くなるといらだちが始まって大きい声で「バカ、遅いよ、速くしろ!」とか、不注意で温かいものと冷たいものを一緒に入れると「お前、バカじゃないの?」と怒鳴ったりする。そんなに大きなミスでもないのに店員は自分の感情を抑えて、ひたすら「申し訳ございません」と誤り続けるしかない。このようなことは稀ではない。どんどん増えていくような気がする。顧客になると店員の立場に立って考えてみる心のゆとりを持てない。その人たちも社会人であるから、自分の職場では何らかの形で人と、正確に言えば自分の顧客と接するはずである。その時はきっと自分の顧客に対して誠心誠意にサービスをしたのに違いない。「顧客に対する最高のサービスを会社の命」として掲げ、「顧客を神様」として奉仕する日本社会でそれ以外のことは考えられない。顧客がどんなに無礼なことをしても、もしかしたら来店前に嫌なことがあって、それで自分の気持ちとは相反対な行動をしているのではないかとおもい、ひたすら誤るしかないと従業員を教育してきた日本社会では、当然のことであるかもしれない。店員が自分の感情を抑えながら「申し訳ございません」とひたすら謝らなければならないのは何故であろうか。店員が自分の感情を抑えているから、おそらく店員自らの意思で「すみません」を連発したわけではない。それでは誰が何のために言わせてあるのか。それは、店の経営方針として店の利益のため、顧客に絶対の「服従」と「忠誠」を見せ、顧客に「サービス」(注:サービスの語源は「サーバス」で「奴隷」という意味であるらしい。派生語は「サーブ」、「サーバント」で、「サーブ」は「仕える」という意味で、「サーバント」は「奴隷」という意味であるそうだ。)の意味の如く奴隷のように尽くすことを店、企業側が要求、強制しているのである。顧客がどんなに無礼のことをしても絶対に口答えを許さないことがマニュアル化されて日本企業の基本方針になっているのである。このように日本企業は謙虚で、奉仕的で、他人に配慮的な優しい精神の持ち主である日本人の美徳を企業の儲けのために絡みとって一人一人の個人的人格を破壊して企業の利益に逆利用しているのである。すなわち、人間と人間との関係が利益を媒介に成り立っているのである。
酷い話であるが、日本企業の多くが職員教育の一環として従業員を自衛隊に送り込んで、そこで上司、企業に対する絶対的な服従と忠誠心の訓練をさせるそうだ。また、ある県の管理者養成学校では、人が通り過ぎている大通りで大きい声で歌を歌わせることを通じて誰の前でも怯まなく、怖がらなく立つことができる訓練をさせているそうだ。忠誠心のある社員、優秀な管理者を育成するため、個人の人格まで壊してしまうことを躊躇わない非人間的なやり方の一例である。
人間一人一人の謙虚で、お互いに助け合い、自分自身の意思から出発して相手を配慮する本来の日本社会の美徳が歪んだ形で企業に利用され、転倒した社会現象になっている。このような意味では、「すみません文化」を美徳として評価していいかどうか疑問である。
売るために過剰に「すみません」を乱発することは日本人の純粋な優しい心に傷つけ、人間的行為を浪費し、社会的にも大きなロスを生んでいるようにおもう。売るための過剰なサービスは資源の浪費ももたらすのである。例えば、スーパーでの商品の二重、三重の包装が資源を無駄に使い、無駄なゴミも出して環境問題を引き起こすのである。その故、日本人はもう少し賢くなって、顧客に対する無条件的な「服従」と「忠誠」は日本人自身にとって不幸なことであることに気づき、目覚める必要があるかもしれない。
確かにそれが企業の利益をもたらすかもしれないが、それも実は人の好意によって成り立つのである。上記の「すみません」という言葉は顧客と接客側のトラブル対応策の一つとして用いたのである。トラブルが起きていることは誰かが感情的になっていて、(文の場合はおそらく顧客が感情的になっているが)「すみません」という側が理性的な対応をしている。ここから分かるように上記の場合、「すみません」という言葉の背景には「理性」と「理解」が働いているのである。しかし、従業員の顧客に対する一方的な「理性的行動と理解」は問題の本質の解決に繋がらないのである。お互いに理性になって相手を理解し、譲り合ってはじめて問題が根本的に解決できるのでる。そしてそのときはじめて、今、サービス業で流行っている顧客と従業員が対等の関係にある真の意味での「ホスピタリティ」接客が成り立つのである。
つまり、「すみません」の背景には理性の働きが求められている。その意味で、お互いの譲り合いと配慮を前提とした言葉、それこそが真の「すみません」ではないだろうか。そして我々が目指すべき道もここにあるのではないだろうか????
〔参考文献〕
http://homepge.nifty.com
第三回 オーナー「ワークショップ」資料 2005年6月